★2020年11月25日(水) 第7回裁判前学習会

報告

 安保法制は違憲 中谷雄二さん「憲法解釈・自衛隊の役割・法制の変遷」ガイドラインを手掛かりに

https://www.youtube.com/watch?v=9R_fr_zWJ2A

 

1125日イーブルなごやにおいて、中谷雄二弁護士を講師に「憲法解釈・自衛隊の役割・法制の変遷 ガイドラインを手掛かりに」と題する裁判前学習会がありました。

 

はじめに共同代表である植村和子さんより挨拶がありました。中日新聞に掲載された谷川俊太郎氏の戦後75年インタビュー記事を引用しながら、次のことが述べられました。

平和というのが当然であるのに戦争と平和というふうに反対語のようにとらえるのはおかしいのではないか?我々の日常生活は平和が先であって戦争が後から侵入してくる。平和とは普通の生活を守ることであり、その結果それはその人自身の信条や考えを持つことにつながっていく。これらは個人の尊厳でもある。戦争になれば命が脅かされ日常生活が壊されるのは明らかである。

安保法制違憲訴訟は私たちの命と尊厳を守るたたかいである。

 

中谷弁護士のお話

中谷弁護士のお話は下記のYoutubeでご覧になれます。

https://www.youtube.com/watch?v=9R_fr_zWJ2A

 

戦後日本の原点と戦前との断絶の失敗

戦後、ボン基本法と呼ばれるドイツ憲法では第11項に人間の尊厳条項を定めている。これはナチスドイツのユダヤ人や障害者虐殺に対する反省から生まれたもので、戦後のドイツの原点である。

これに対し日本国憲法は憲法前文と第9条が原点である。ところが、天皇主権から国民主権へと価値観が大きく変わったにもかかわらず、日本の司法は戦前との断絶を果たすことができなかった。そのため日本国憲法の原点があいまいになってしまった。そのことを私たちは自覚せねばならない。

占領軍は戦前の官僚機構を引き継いでしまった。例えば、治安維持法を立案し思想検事であった池田克や長部謹吾といった人物が戦後最高裁の判事になっている。このことにより、戦前の人事と判例が戦後の最高裁に受け継がれてしまったのである。

 

先制攻撃を認めない国連憲章と武器を認めない日本国憲法

戦後、国連では集団安全保障という考えのもと国連憲章が作られた。国連憲章で認められている集団的自衛権はアメリカの要請で書き加えられたものである。当初、集団的自衛権は国連軍が編成されるまでという時間的制約があり、さらに先制攻撃を認めないという2つの制約があった。ところが、その後現実追認により、次第にこの制約はあいまいなものとなってしまった。本来、湾岸戦争は国連憲章違反である。

戦後、日本は日本国憲法により一切の武器との断絶を宣言した。ところがこれも安保条約とともにあいまいなものになろうとしている。

吉田茂首相は、日本国憲法は自衛権を認めないとはっきり述べている。戦争は自衛から始まることから、自衛権を含め一切の武器とのかかわりを絶ったのである。

 

戦争対策からテロ対策へ

旧安保条約はサンフランシスコ平和条約とともに調印された。米軍が旧安保条約に要求したものは基地の提供のみであった。1960年に調印された新安保条約は米軍の活動範囲を極東まで地理的に広げるものであり、これは専守防衛ではない。この時国民的大反対が起きた。新安保条約において集団的自衛権は認められなかったことは市民運動の大きな成果である。

その後、日米政府間の合意であるガイドライン(1978、新1997、新新2015)により自衛隊の役割は大きく変わることになる。

1991年、ソビエト崩壊により、冷戦が終わり最も困るのは軍事産業である。彼らにとって戦争に代わるものが必要であった。そして新たに作られたものがテロとの戦いである。それ以前にもテロはあったが、テロは戦争ではなかった。テロとは犯罪であり、警察権力により取り締まるものであった。そして、テロ対策とは貧困をなくし、格差など不公正を正すことであった。

ところがテロが戦争の対象となると話が全く違ってくる。テロリストは逮捕の対象ではなく、殺傷の対象となった。テロとの戦いに終わりはない。終わりがない戦争こそ軍事産業にとっては好都合なのである。

 

9条は平和運動の法的根拠、これをなくしてはならない

新新ガイドラインでは日米共同作戦がなくなり。日本は敵基地攻撃能力まで求められる。装備においても空母、巡航ミサイルなど米国と肩を並べる武器を持つことが要求されるようになる。ガイドラインとは国民に隠して日本の軍事力と役割を拡大する日米政府間の約束である。

自衛隊が戦争に巻き込まれたとき国民の反対運動が起きる。その時憲法9条は国民が拠って立つ法的根拠である。戦争するものから見れば9条は邪魔な存在である。政権が代わっても改憲の動きは変わることはない。これを許してはならないのである。

 

松本篤周弁護士より締めの挨拶

これまで安保法制違憲訴訟は連敗が続いている。しかし、私たちは裁判に負けることを恐れてはいけない。大切なことは歴史に対する責任を果たすことだ。責任を果たすという点において、現在の原発裁判も安保法制違憲訴訟と同じである。

司法は責任を回避し、戦争遂行に手を貸そうとしている。今日のお話にあったように日本の司法は戦前との断絶に失敗した。トランプが保守派の判事を送り込んだように、日本の裁判所の要所要所に裁判官を送り込んでくる。そして彼らは戦前のように責任を回避し違憲判断をしようとしない。

我々は、憲法で定められた違憲立法審査権を持っている裁判所に対して違憲判断を発動せよ、と求

めることによって歴史的責任を果たそうとしている。もし我々が裁判を起こさなければ、後世の世代

から「なぜ裁判を起こさなかったのか。」と責任を問われることになる。裁判官に責任はないことに

なる。そのために我々は結果を恐れず裁判を提起した。これに対して裁判官が違憲判断を回避するな

ら、戦争を許した責任は、まさに裁判所にあることになる。

 

みなさん、判決の結果がどうなろうと。全力を挙げて歴史に対する責任を果たしましょう。